エピローグ 『あの虚しかった戦争の終わりに、あなたのようなライバルに恵まれたことは彼にとって望外の喜びだったに違いない。だが、それを確かめられるのはあなただけしかいない。だから、私はあなたに、こうして手紙を書いている・・・』 4度読み返した手紙を、咲耶は丁寧に折り畳んで封筒にしまった。 時刻は午後3時半を少し回ったところ。喫茶店“メビウス1”の客入りは悪くない。元撃墜王がいることが以外に特徴のない喫茶店が潰れずに済んでいるのは一重に立地条件がいいからだろう。駅前は人通りが途絶えることはない。 土曜日だからだろうか、学校帰りの女子高生が割合多かった。 携帯電話やプリクラ手帳を片手におしゃべりに花を咲かせる姿も、ようやく日常の一コマとして普通に認知されるようになっていた。 2年にわたる大戦争で産業基盤は破壊しつくされていた。それが復員する膨大な数の兵隊と結婚するとインフレが生まれる。失業率など5割を軽く超えた。故に戦後の預金封鎖、デノミ、配給制度の延長など、戦時と何も変わらない生活がおよそ3年も続いたのだ。 戦争終結から5年、私の喫茶店のような店が普通に営業できるようになったのは、極々最近のことだった。 「マスター、豆がもうないでゴザルよ」 「しょうがないわね・・・悪いけど裏の倉庫から取ってきてくれる?」 承知!、と言って走っていくのはバイトの後藤君だ。前の日の夜に見たテレビドラマでその日のセリフ使いが変わるというエキセントリックな高校2年生だ。 もちろん、彼は昔の私を知っている。けれど特別に敬意や注意を払ってくれるわけではない。彼は普通の喫茶店のマスターに接するように、会話して、働いてくれる。 それに文句はない。 終戦から5年、やっと日本は英雄を過去のものにした。英雄なんてものを必要としない国なったのだ。それが素直に嬉しい。 だって、そうだろう? 英雄のいる世界なんて悲惨なだけなのだ。英雄なんてものは、地獄とセットでしか具現化されない。正義の味方は、悪が栄えるなんて馬鹿げたフラグが立たないと助けにきてくれないのだ。 だから、英雄なんていない方がいい。私なんていない方が世のため人の為なのだ。 「マスターが元気ないでゴザルよ?」 後藤君は特別気が利くというわけではない。むしろちょっと無神経なところがある。 そんな彼に悩みを気付かれてしまうあたり、私も修行が足りない。 「大したことじゃないんだけどね・・・過去が・・追いかけてきた」 「過去?」 「忘れたわけじゃないんだけどね・・・全く過去って奴はコンクリートの隙間からでも生えてくる雑草みたいね・・ほんとにしぶとい」 「はぁ・・・では草取りをするでゴザル」 適当な相槌を返してくれる後藤君は入ってきたお客さんにお冷とお絞りを持っていく。 それを見送って、咲耶はもう一度手紙を広げた。 この手紙を書いたのは雛子という中学生の女の子らしい。その割には筆跡も、内容も随分と大人びている。彼女は戦時中にお兄様といっしょに暮らしていたときの出来事を切々と書き連ねていた。 手紙に同封された写真は1枚、どこかのバーを背景にしてお兄様と知らない3人が仲良くカメラに笑顔を向けている。 この手紙の送ってくれた雛子という子は、私の知らないお兄様を知っているのだ。 「料理長、3日ぐらい店を空けるから、その間よろしくね」 「それは急ですね」 後藤君のとってきたオーダー、ジャンボスペシャルDXイチゴパフェを作っていた料理長はクリームの山の向こうから顔を上げた。 しっかし、誰だろう?この冗談でつくったイチゴとクリームの怪物を注文したのは・・・? ついさっき店に入ってきた客の顔を思い出してみる。たしか、やたら眠そうな顔をした女子高生だったはずだ。名前は知らないが、口癖が特徴的で「だお〜」とかなんとか、エキセントリックな口癖だと思う。 胸焼けしそうなクリームとイチゴの山を意識から排除して店を出る。 料理長は基地の食堂から引き抜いてきた古いなじみだ。任せておいて不安はない。 まあ、仮に売り上げを盗まれても、別にどうってことはない。既に一生働かなくてもいいぐらい蓄えはある。英雄というのを3年かそこら続けていれば、知らないうちにスイス銀行に口座の一つや二つは出来ているものだ。 喫茶店は、もうほとんど意味のなくなった私の日常を辛うじてまわしてくれている潤滑剤に過ぎない。 「まぁ、それなりの代価も払っているから正当な報酬だけどね」 足は最寄の空軍基地へと向っている。 衛ちゃんはそこで教官をやっていた。今でも時々訓練生を連れて遊びにくる。少々身勝手だが、訓練生から衛ちゃんを借りていくとしよう。軍規だの職務規定だのはメビウス1の名前の前では蜃気楼のようなものだ。 私一人では少々寂しいし、それに心細い。 あの最後の戦いで、優しく抱きしめてくれた衛ちゃんがいなければ、今の私も、この世界もなかっただろう。 私の知らないお兄様を尋ねに行くには、私一人ではダメなのだ。 私は、お兄様を殺した私をまだ許すことができていないのだから。 衛ちゃんの操縦する高等練習機、つまりF−2Bを使えば、浜松から大阪など散歩でいける距離だ。 久しぶりに着たフライトスーツを出迎えた基地司令にさっさと預けて私は街に繰り出した。住所は手紙に書いてあったので、タクシーを捉まえてしまえば後は眠っていてもついてしまう。 そんな反則技までつかったというのに、喫茶バー“スカイ・キッズ”についたころにはすっかり日は傾いていた。F−2Bなら渋滞も何も無いけれど、普通のタクシーでは渋滞に掴まったらそれまでだ。 「ついたよ〜衛ちゃん」 毛布に包まって気持ちよさそうに寝ている衛ちゃん。なかなか起きない。 「う・・?うん・・ずいぶんとかかったね」 「そうね。次はチャッパーにするわ。F−2は速いけど、空港に降りなくちゃいけないから面倒ね」 「基地の装備を勝手に借りちゃダメだよ」 衛は嗜めるように言った。 彼女の親友はヘリやセスナを無断借用する悪癖があるのだ。戦闘機をタクシー代わりに使っているようなフシがある。 「いいじゃない、税金はちゃんと払っているんだから。国防軍の装備は私達の税金でまかなわれているのよ?私にはそれを使う権利があるわ」 「払ってるって・・・何千分の1だよ」 「そうかな・・去年の固定資産税かなり凄いことになってたけど・・・」 それはちょっとばかり頭の痛い問題だった。 実際には頭の良い弁護士と会計士を雇っていなければ、とっくの昔にスキャンダルになっているほどの大問題だったのが、そこらへんの自覚はなかったりする。 「お客さん、軍人さんなのかい?」 タクシーの運転手は怪訝そうな声で言った。 彼が抱く、つまり世間一般のイメージと私達はかけ離れていたのだろう。確かに、すっかり娑婆っ気に染まった私はそこらへんのOLと大して変わらない。 「まあ、どうでもいいだが、この店は飛行機のパイロットの御用達でね。他の兵科やカタギの人間なら止めといた方が身のためだぜ」 どうでもいい、という割に運転手の言葉は真剣だった。 「何かあったの?あなた」 「前にここで、前っていっても戦時中なんだが・・・ここで喧嘩しちまってな。今思えば俺が全部悪いんだが、よっぱらって騒ぎをおこしたら、やたらめったら強いパイロットにぶん投げられちまってよ。恥ずかしい話だが、それ以来ここはパイロット御用達なんだ」 「なるほど・・・確かにここって基地に近いもんね」 言っている傍から頭上を一機の戦闘機が飛び去った。おそらくF−16Jだろう。 除隊してから2年経つけれど、エンジンの爆音を聞けば大体の見当はついてしまう。 黄昏時の空から小さな機影を探し当てる。これだって、まだ現役で通用する精度だろう。実際、同い年の衛ちゃんや多くの戦友が第一線で頑張っている。 なのに、私だけが隠居じみた生活をしてのは、一重に私が私を許していないからだ。英雄としての私はもう必要とされていない。私は何の気兼ねもなく唯のパイロットの咲耶として生きていける。けれど、私は咲耶を信じることができない。信じることが出来るのは英雄としての私だけで、英雄が必要とされていない以上、私はどこへもいけないのだ。お兄様を裏切った咲耶としては、もう生きていけない。 「なんていうの、あなたをぶん投げたパイロットは?」 毛布を借りたお礼に気持ち大目に料金を支払って、私は最後に問いかけた。 「さぁ・・・確か・・・黄色の・・・何番だったかな・・・」 「もしかして、13?」 閃くものがあったといえば、あった。お兄様なら、酔っ払いを叩き伏せるぐらい簡単にやってのけるだろう。 私の知るお兄様が、あの夏の日からずっとそのままなら、きっとそうするはずだ。 「そう、13だよ。黄色の13。何だ、知りあいなのか」 「ま、そんなところ」 そうか、という運転手はどうにも気に掛かる顔をして笑った。 「あいつ・・・何故かやたらモテたからな・・・あんたも昔あいつに声をかけられた口か?いっとくけど、あいつを探しているなら無駄だぜ。今だ行方知れずだ」 「それはそうよ。ここにはいない・・・だって、私が殺したんだから」 唐突に耳朶を打つ冷たい響き。驚いて目を見開く運転手を放っておいて、咲耶はバーの年季の入ったドアノブに手を掛ける。 衛ちゃんは何も言わない。あれだけ際どいことを言っても、何も言わない。 言うべきことは5年前に言い尽くしているからだろう。そして多分、諦めている。私はあの日から何も変われていないのだ。 マホガニーか何か、造りの良いドアを開ける。 すぐさま視線が飛んでくる。その色の半分は好奇の黄色で、もう半分は消極的な赤だ。 けれど、この程度の視線なんてどうってことはない。ちょっと前まで何万って観衆の前で一席ぶってきたのだ。この程度の視線など道端に転がっている小石みたいなものだ。 「マスターはいるかしら?ちょっと尋ねたいことがあるんだけど」 「はい、私がマスターですけど」 流石に、ぎょっとしてしまう。 バーテンだと思って声をかけた人は私よりも若かった。というか、完全に女子大生のバイトだと思っていた。 「あ、ちょっと若いすぎるかもしれませんね。自己紹介もまだでした。スカイキッズのマスターをしている白雪と申します」 と、ほんのり顔を赤らめて笑う。 けれど、次に飛んできた言葉は想像もつかないほど怜悧で、鋭い一撃だった。 「あなた、メビウス1ですね」 斬撃のような一言を浴びて、思考が凍りつく。 そして何より、研ぎすぎたナイフのような瞳が咄嗟に思いつく迂闊な言葉を全て封じこめていた。 何か余計なことを言えば、そこで道が閉ざされる。それは当然すぎるほどの事実として受け入れられた。それこそスフィンクスを前にした旅人のようなものだ。 死ぬ。確実に、当然のように、疑問の余地無く絶殺される。 どうして、女子大生といっても通用しそうな小柄なマスターにそこまで脅威を感じなければならないのかは分らない。 しかし直感が、レーダー警戒受信機のように警報を鳴らしていた。 イメージは居合い切り。瞬きした瞬間、両断される。 「そんなに警戒しないでください。あなたのこと憎んでますけど、私には資格がありませんから」 「資格?」 そう問うのは衛ちゃんだった。 「そうです・・彼を裏切ったのは、あなただけじゃない」 深く沈む言葉。それは血を吐くような声色だった。のどの奥で唸る語尾はまるで心臓をえぐるようですらある。 どちらにしても、その言葉にあるのは深い後悔の色だった。 そしてそれは自分も同じだ。 「彼を裏切った私にあなたを裁く資格はない。もしも、その資格があるとすれば、それはこの世にいない千影さんか、雛子ちゃんだけです」 「私に手紙を出してくれた人ね」 「そうです。もうすぐ学校から帰ってくると思います」 言葉の音韻にそって流れるように、彼女の手にウイスキーのボトル現れる。 「しばらくお待ちください」 次の瞬間には、それはショットグラスになって私の手の中にあった。 ちょっとした手品だ。 その手が殺戮に向けられたら、一秒だってこの人の前で息をすることはできないだろう。 寄越されたストレートを一口含んでそれが分った。鼻が曲がって、その臭いがなんであるかさえ分らなくなっていたのだ。喉を刺激するのは焼けるようなアルコールではなく、酒に薄められた血の臭いだった。 「何者だろう?」 グラスを唇に運ぶ。 「恐そうな人だけど、きっと良い人だよ」 衛ちゃんの手の中にはコーヒー。衛ちゃんに酒精は必要なかった。 去っていくマスターの背中を見送る。その背中は冷えた鉄で出来ている。兄を裏切ったと告白した人は私の手の中に燃えるような酒を残した。 ライ・ウイスキー、銘柄は分らない。きっと無銘の酒だろう。しかし、それでいいのだ。名も知らないウイスキー。私と同じ裁かれることを望む人からのプレゼントなら、名前は必要ない。なぜなら、罰と償いのやり方はただ一つしかないからだ。ただ一つしかないのなら、名前は不用。 火照る顔に冷えたグラスを当てる。グラスが温まる前に、残りを全て流し込む。 酒が心を十分に包んでくれたところで、制服のスカートを翻して過去が刑の執行にやってきた。 「歩きながら話そう」 と、誘う咲耶に雛子は強ばった顔で頷き返した。 バーの中では誰かに話を聞かれるかもしれないので、その提案は渡りに船だった。絶対の秘密というわけではないけれど、人に聞かれるのは困る。 何故困るかというと、それはとても辛いけれど、とてもキレイな思い出だから。知らない誰かの好奇心でそれを触れられるのは我慢できない。 俯いて隣を歩く、背の高い美人は黄色の13に似ていた。 特に、横顔がびっくりするぐらいに似ている。造りとか、そんなんじゃなくて、雰囲気が似ている。 色あせた記憶の中、バーの片隅でギターを弾くあの人に、とてもよく似ている。 少し哀しげで、残念そうで、胸に溜まった困りごとをギターにのせてアルコールの夜気に溶かしていく、そんな横顔。 5年前は理解できなかった13の横顔が今なら理解できる。 もとより、この5年間はそのためにあったようなものだった。無邪気な子供時代を犠牲にしてでも、私は記憶の中の13を理解できる大人になりたかったのだ。 「兄は・・・あなたから見てどんな人だった・・・?」 ギターの高い音みたいな澄んだ声、咲耶さんは声まで綺麗だった。 視線は伏せたままで、ぼんやりと自分の影を見ている。灯ったばかりの街灯でできた影は夕日の赤い影に途切れ途切れに像を結んでいる。 それが記憶を呼び戻す。2人で行った銭湯の帰り、夕暮れの中、影踏みをして遊んだあの日を思い出す。 「いつも別のことを考えている人だったと思います」 「別のこと・・?」 今のはちょっと難しかったかもしれない。言葉にした私自身、よく分らなかった。ただ、あのなんともいえない横顔は、そう表現するしかなかった。 「私と遊んでいるときも、私じゃなくて、別の何か考えていたんだと思います。それはどうにもならない困りごとで、ちょっとだけ眉に皺を寄せて、口元だけ私を心配させないように微笑んでいました・・・」 「そう・・・ちょっと嬉しいな・・・私もそうなんじゃないかなって・・・思ってた」 「え・・・?」 いいかげんなことをいわないで、と言いかけて止めた。いいかげんな同意や感傷ならどうあっても放っておけない。 けれど咲耶さんの言葉に偽りや浮ついた感傷なんてなかった。私にだって、それくらいは分る。 「私、ずっと想像していたの。兄と生き別れてから兄がどんな風な人になっているのか、想像するしかなかった・・・幼いころはスーパーマンとか魔法使いだったけど・・・最後に辿りついたイメージは今あなたが言ってくれたような顔だったわ」 淡々と、沈んでいく夕日のように、当たり前のように咲耶さんは語る。 それを聞いて、私はいつになく腹を立てていた。 何故そんなことが分るのか、どうしても納得いかないのだ。 「きっとね・・・兄の心は過去にあったんだと思う。変えられる未来じゃなくて、終わってしまった失敗にこだわる人だったと思う・・・あなたの言った“どうにもならない困りごと”っていうのは、過去のことだと思うの。だって、過去は誰にも変えられないことだから・・・」 「失敗って、あなたと生き別れたことですか?13はあなたのことなんか、忘れていました!」 言葉が刺々しいものになることを止められない。 だって、13のことを一番よく知っているのは自分だって自負があったから、でもこれじゃ私の方が教えられてるみたいだ。 「そうね・・・私のことは忘れてしまっていたみたいだけど、あの夏の日のことはしっかりと覚えていてくれたみたい。きっとあの日が発端だったんじゃないかしら。その後、私のいた場所に千影さんが納まったから、私は薄れてしまったんだと思う」 「まるで見てきたように言うんですね」 「それぐらいに調べたつもりよ・・・英雄のコネクションって馬鹿にできないものよ。この5年間、兄がいた孤児院や昔の同僚、上官、友人、手当たりしだい兄の過去を探したわ。特殊部隊まで動員して兄の遺体を捜したり、お葬式もしたかったし」 最後のそれはちょっとした驚きだった。 お葬式、確かに死んだ人を弔うためにお葬式をするのは当然だけど、自分で殺しておいてお葬式はないだろうと思った。 「でも、結局兄の遺体は見つからなかった。撃墜した高度は低いのに、まるで空気にとけてしまったみたいに、髪の毛一筋だって見つからなかったわ」 「じゃあ、生きている可能性はあるんですか・・・」 私は始めて咲耶さんの顔を見て言葉を飛ばした。 とっくの昔に諦めていたのに、その一言だけで狂おしいほどの激情が戻ってくる。 けれど、咲耶さんは俯いたまま首を振った。 「機体の破損具合からほぼ即死だって、報告が来たわ。ミサイルの爆発した位置がコクピットに近かったの」 咲耶さんの呟きは、あの人の弾くギターの音色のように夕闇に溶けていった。 坂道で学校帰りの小学生の一行とすれ違った。 また5年前の自分が蘇ってくる。夕暮れの中、手を繋いで帰った3人の思い出。右手には13がいて、左手には4がいた。 大好きな人と大好きな時間。 最初から、夕日のように失われることが決っていた幸せ。 今日は、あの頃のようにやけに夕日が輝いて見える。坂の多い町を真横から射す夕日が赤い金色に染め上げ、街並みの影が長く伸びる。 街角に出れば、夕日が道の向うから顔を覗かせる。友達もなく、一人で影追い遊びに興じていた私。それを迎えにくる千影、その隣に佇んでいる13。 あの頃は、あんな楽しいことがずっと続いていくと思っていた。 歩きなれた街角を右に回る。何度となく幼い私が走りながら曲がった角だ。今でも時々、戦闘機を載せたトレーラーがこの狭い角を曲がる幻を見る。この道を抜ければ、懐かしいあの滑走路にでる。 少し遅れて咲耶さんはついてきた。 「どこへいくの・・?」 「この先に黄色中隊が使ってた滑走路があります。あなたに見て欲しいものがあるんです」 咲耶さんは静かに頷いてついてきた。 静かな日暮れだった。 人の姿はなく、ありがちな夕暮れの喧騒もない、赤い夕日に炙られたススキだけが静かに揺れている。それ以外は、私だって生きていないほどに静かだった。 幼かった日には、こんな時間は不安でたまらなかった。大好きな人が傍にいてくれないと、何かとても恐ろしいことが起きそうで、恐くて泣いていた。 それも今では積み重なるポートレイトの一枚に過ぎない。 少しずつあの頃の町は失われていくけれど、黄色に塗ったあの優雅な戦闘機が掻き鳴らすエンジンの爆音は変わることなく耳に残っている。 坂を上って、降りて、表通りの信号4つ目を右に曲がる。そうすれば、後はエンジンの爆音がする方へ走っていけば、大好きな人に会える。あの頃はそういうルールでこの町は動いていたと思う。 今でも、上空を掠めていく戦闘機の爆音を聞くと、あの角を曲がってしまいそうになる。 「一つ、聞いていいですか?」 今度は私が質問する番だ。 「なんでも聞いて」 「じゃあ・・・子供のころの13はどんな人でした?」 私の知らない13があるとすれば、それは咲耶さんしか知らない子供のころの13しかない。 「元気な・・・普通の男の子だったと思う。特別何か思い出があるわけじゃないわ。川で溺れていたところを助けられたとか、そんなドラマチックなことはなかった。ただ、家に馴染んでいなかった私をよく外に連れ出してくれたな・・・」 「家に馴染んでいなかった?」 「そう・・・私さえも忘れていたんだけどね・・・実は私、東日本の生まれなの。産みの親は東日本の軍人で、亡命する時に撃たれて、私だけが生き残った。戦争が終わった後、NSDの資料室を漁っていたら分ったの。サンダーバード作戦、っていうSRIの情報工作計画があって、父はそこで亡命者を出迎える仕事をしていたそうよ。そこで父は一人だけ生き残った私を引き取ってくれたの。でも、その報復に兄は東日本に誘拐された。兄だけ東日本に取り残されるなんておかしいとは思ってたけど、そんな裏事情があったなんて、全然知らなかった」 「それじゃ・・・私と同じ・・・」 本当に驚いた。そんなことってあるのだろうか? でも、咲耶さんはデタラメを言っているように見えない。それに私が焼け出されたことも紛れも無い事実だった。 13がいなければ、私はずっと焼け出された後の灰色の生活を続けていただろう。いつまでも一人ぼっちで、優しい言葉をかけてくれる鞠絵姉さん達も拒絶して、きっとつまらない人生を送っていただろう。何もかもに脅えきっていた私に優しさを思い出させてくれたのは13なのだ。 私は、半ば無我夢中でそのことを咲耶さんに話していた。 「そう・・・本当によかった」 そして、聞き終えた咲耶さんは本当に嬉しそうに笑った。 「やっと、全ての欠片を集めることが出来た・・・兄は、あの日から変わらず、ずっと変わらない兄のままだった」 それは最高の感情を込めた言葉だった。 それで分ってしまった。言葉ではなく心で理解できた。この人が5年間何をしてきたか、そしてその5年間の意味を。 それは記憶の収集であり、過去の構築であり、ある一人の人間の思い出を蘇らせることだった。そして、その意味は。 「兄は私を裏切らなかった。最初から最後まで、私の知っている兄だった」 足が止まる。 そこは嘗て滑走路だった場所だ。 懐かしいケロシンの臭いも、コンクリートに残ったタイヤのゴム跡も、排気に炙られて枯れた草木も、何も残っていない。 今あるのはただの高速道路だった。ここを通る車はそこに何があったか、知ろうともしないだろう。 けれど、知っている人はここに何があるか知っている。 道路の向う側、暮れなずむため池のほとりに立っているのは墓標だった。今はなき黄色中隊を弔う、世界でたった一つの墓標がそこにある。 「このお花は、あなたが?」 昨日生けたばかりの百合はもう幾つか花がおちていた。 「はい・・・生き残りの方も来てくれます」 墓標に手を合わせた咲耶さんは落ちた白百合を胸のポケットに挿した。俯き加減の白百合はとても彼女に似合っていた。 「ありがとう・・・兄も喜ぶわ」 「お礼なんか、いりません」 カチリと撃鉄を起こす音が風に乗って茜色の空に響いた。 手の中には冷たい鉄の塊がある。白雪姉さんの机から盗んだワルサーPPK。私でも扱える小さな拳銃。けれど、白百合を挿したその左胸を撃ち抜くには十分な威力がある。 「あ、慌てないんですね」 声は裏返っていた。喉が無理な発声をしたせいか痛い。 「分ってたもの・・・手紙が来たときから、こうなるって」 「命乞いをしても無駄です」 「しないわ」 「あ、あなたは死んでも、13のところにはいけない!」 「分ってる。裏切り者のいけるところなんて、どこにもないわ」 私の言葉によどみなく答える姿は今にも風に攫われてしまいそうだった。まるで存在感が希薄で、風そのものになってしまったような錯覚を覚える。 こんなはずじゃなかった。今日まで何度も何度もこの時を夢に見てきたのに、突きつける言葉も、銃も、矛先が定まらない。 「そこの、あなた!相棒なんでしょ、助けなくてもいいの!?」 胸の中をぐるぐる回るのは、わけが分らない焦りだけだった。 「いいよ、別に。伊達や酔狂でこの5年間さくねぇに付き合ってきたんじゃないもん。君が撃たなくても、さくねぇは自分で始末をつけるよ」 はっきりと、簡潔に、ショートヘアの背に低い咲耶さんの相棒は言い切った。 それは、つまり私に撃てと言っているようなものだった。 「撃てないの?」 心底困ったという顔をして、咲耶さんは1歩前に出る。 「動かないで!」 制止の声が届かないはずがないのに、咲耶さんは足を止めない。 「聞こえないんですか!止まらないと撃ちますよ!」 「ええ、撃ってちょうだい・・・でなければ、あなたを殺すわ」 手にはナイフ。小さな折りたたみ式のナイフが冷えた刃を私に向けている。 何を言っているのかよく分らない。 あなたを殺すと、咲耶さんは言った。私を殺すということは、咲耶さんが私を刺すということで、私は殺すはずの人に殺されることになる。それはおかしい、どうしたっておかしい。そんなの間違っている。 死ぬのは咲耶さんで、殺すのは私。この人を裁くことができるのは、世界に私一人だけ。 だから、裁く。殺す。だって、それ以外にどうしたらいいか分らない。あの人を奪った咲耶さんをどうしたらいいか分らない。大切な人を殺されたんだから、私は復讐する権利がある。 だから、殺す。私は間違ってない。私が正しい。だから、私が殺されるのは間違っている。だから、私が殺されないために咲耶さんを殺すのは正しい。 ほら、私は何も間違ってない。 咲耶さんまでもう1メートルしかなかった。直に撃たないと私が殺される。あの人みたいい殺される。私は殺す方なんだから、私は死んだからそれは間違っている。だから、ここで咲耶さんを撃つのは正しい。私が死なないために咲耶さんを殺すことは正しい。 この人を殺すことは正しいことなのだ。正しいことをするのに、躊躇いなんていらない。この人は英雄でもなんでもない。ただの裏切り者だ。私から大切な人を奪った簒奪者だ。だから、こいつを殺すことは正しい。 あの30センチ、ナイフが首に向って落ちてくる。 見れば分る。こいつは人を殺すことなんてなんとも思っていない。まるで石ころを蹴るように人を殺せる人間だ。そして、13を殺したのだ。こいつの前に立ったら、誰も助からない。死神みたいな奴なのだ。生きているだけで人を殺す。そんなの生きてるだけで害悪だ。 私はこのままでは死んでしまう。死んでしまったら、殺すことは出来ない。殺すことは正しいけれど、私が殺されることは間違ってる。 私が殺すのは正しい、だけど、私が殺されるのは間違っている? 分らない。正しいことなのか、間違っていることなのか、分らない。 思考が纏まらない。思考なんてしなくてもいいほど簡単なのに、それができない。頭の回路が吹き飛んでしまったみたいだ。だから、指先の神経までわけが分らないことになっているに違いない。本当に分らない、分らない、分らない、分らない、分らない。 ―――――――分らない、分らない。分らない、分らない、分らない、分らない。分らない、分らない、分らない、分らない。分らない、分らない、分らない、分らない。分らない、分らない、分らない、分らない。分らない、分らない、分らない、分らない。分らない、分らない、分らない、分らない。分らない、分らない、分らない、分らない。分らない、分らない、分らない、分らない。分らない、分らない、分らない、分らない。分らない、分らない、分らない、分らない。分らない、分らない、分らない、分らない。分らない、分らない、分らない、分らない。分らない、分らない、分らない、分らない。分らない、分らない、分らない、分らない。分らない、分らない、分らない、分らない。分らない、分らない、分らない、分らない。分らない、分らない、分らない、分らない。分らない、分らない、分らない、分らない。分らない、分らない、分らない、分らない。分らない、分らない、分らない、分らない。分らない、分らない、分らない、分らない。分らない、分らない、 ―――――分らない。どうして、この人を殺せないのか、分らない。 それは賭けだった。 酷くタイトで、普段なら絶対に手を出さないような分の悪い賭け。 だけど、それ以外にさくねぇを助ける術がないのなら受けるしかなかった。この5年間あらゆる方法を試してきたけど、さくねぇの死への傾倒を止めることはできなかったのだ。縋れるのは藁でもストローでも爪楊枝でも縋るしかない。 けれど、この手は本当に最後の手段だった。 この世で唯一さくねぇを裁くことができると自認する少女をさくねぇに引き合わせるのは弾薬庫の中で花火をするようなものだ。最悪でない結末などありえない。 けれど、賭けは成功していた。 そもそも、英雄の現住所など普通の一般市民でしかない雛子に分るわけがないのだ。誰かが意図して教えない限りは。さくねぇの住所を教えたのはスカイキッズのマスターである白雪さんだけど、SRIの特殊工作員といえどもメビウス1の機密に迫れるほどのパスは持たない。では、どうして白雪さんはさくねぇの住所を知っているのか?答えは一つしかありえない。 みんなグルなのだ。 どれぐらいグルかというと、さくねぇの喫茶店のバイトの後藤君や料理長までグルだ。タクシーの運転手も、みんな。 さくねぇの直感を騙すための遠大に遠まわしな裏工作、もちろん拳銃に入っているのは全部ペイント弾だ。さくねぇのナイフも刃を落した可能な限り精巧にしつらえた玩具のナイフだ。そもそも今のさくねぇの周りにまっとうな刃物なんてあるわけない。いつどんな方法で自殺を図ってもおかしくないのだから。 絶対に、二度と成立しないだろう賭けは今ここに成った。 さくねぇのナイフは雛子さんの首皮一枚で止まっている。雛子さんの拳銃は最後まで震えたままだった。 罪はあっても、罰はない。 それがあの泣き出してしまいそうな青空で殺しあった兄妹のルールなのだろう。 背負った罪は消せないほどに重く、なのに罰は永遠にない。戦時中のことだ、決して法に裁かれることはない。それこそ永遠の牢獄だ。罪を裁くことができるのは自分だけ。 罪を裁くということは、それと引き換えに許しを与えるということだ。 この世で唯一自分を裁くことができると、最後の期待をかけた雛子さんさえさくねぇを裁けなかった。 だから、後に残った答えは一つだけ。 ゆっくりと拳銃を下して、ナイフを突きつけたままのさくねぇに雛子さんは言った。 「私・・・頑張りますから。おにいたまみたいになれるように、強くなりますから。こんなところで泣かないんです。もうしっかり泣いたから。もう泣かないんです」 しゃくりあげる声を封じるのに必死で、彼女は目に溜まる涙を忘れている。 「でも・・・あなたは、泣いてもいいですよ」 それは魔法のように、止まっていたさくねぇの時を動かしていく。 手から落ちたナイフはコンクリートと打ち合わせて乾いた音を立てた。 残ったのは消えてしまいそうな謝罪の言葉と、遠いところにいってしまった大切な人に捧げる涙。 それは5年越しの涙。やっとさくねぇは13の死を悼むことができたのだ。 静かに衛は2人に背を向けた。ちょっと散歩にでも行こう。 散歩をするにはいい季節で、ススキが風に啼いていた。名月は終わっていたけれど、星の瞬きを楽しむことはできる。 50キロ手前から封鎖してある高速道路を優雅に横断して、蒼い夜空に輝く星々に今日の幸運を感謝した。 コバルトブルーの夜空に一際輝く星が一つ。その星にはたぶん正式な名前があるのだろう。けれど今だけは、その星は黄色の13の生まれ変わりだ。その隣でそっと弱く輝くのは黄色の4にしよう。 人は死んだら星に生まれ変わるのだと、どこかの絵本で読んだことがある。 だとしたら、あの星は13と4に決っている。遠い空からさくねぇや雛子さんを見守っているに違いない。 いや、もしかしたら、もっと近くで、あの2人を見守っているのかもしれない。 そう思った瞬間、割れるような爆音が背中を走り抜けた。 振り返る。 高速でスライドする視界の中を、夕日を浴びて、風を割って駆け抜けていくのは黄色の戦闘機。優雅で、力強く、そしてどこまでの哀しく寄り添って飛び立つその2機のフォルムはSu−37スーパーフランカー。 駆け抜けていく一瞬、軽く手を上げることでパイロットは別れと代える。 エンジンの爆音を追うように、風が吹き荒れた。 巻き上げられた砂から目を守った一瞬、目開けるとそこにあるのは夕日に暮れなずむ閑散としたコンクリートの道だけだった。 戦闘機も、エンジンの爆音も、彼らの笑顔も、幻のように消えていた。 けれど、この嗅ぎ慣れたケロシンの臭いは幻ではない。いや、それさえも風に吹かれて散っていく。 確かなものはたった一つ。 赤い黄昏の空から舞い降りる一枚のハンカチ。 手にとって、微かに残る香りは、百合の花に似ていた。 肌に感じる僅かな温もり。微かな温もりを逃すまいと重ねられた手をすり抜けて、温もりさえも風の前に擦れていく。 けれど、それは確かにここに彼らがいた証だった。 ボクはハンカチを2人に渡して、散歩を再開することにした。 名月はもう終わってしまったけれど、今日は気持ちいい秋の夜だった。別れの歌を唄うにはとても良い夜だ。 上を向いて歩こう―――――涙が零れないように。 FIN |